「ゆっくり学んでいこ😊」
その笑顔を見た2週間後、私は見知らぬ病棟で師長代行をしていた。
辞令はなかった。応援のはずやった。
・・・その応援が、3年続いた。
看護師17年目の私が、初めて管理職になったのはコロナ禍のど真ん中やった。
目指してたのは管理職じゃなくて、看護の専門性。
それでも師長に背中を押されて、しぶしぶ副主任を引き受けた。
元々いたのは、小児と消化器内科のゆったりした混合病棟。
移動先は、循環器内科・脳神経内科・リウマチ膠原病内科の混合病棟。
本気で読まないと人が死ぬ心電図。
見たことない疾患。
名前も知らないスタッフ多数との消耗戦。
ベイマックスみたいな主任が消えて、副主任なりたての私が師長代行になった。
この記事は、コロナ禍に地獄に叩き込まれた看護師の記録です。
笑えるとこもあります。でも当時の私は本気で「1回殺された」と思ってた。
同じような場所で踏ん張ってる人に、届いたらいい。
「ゆっくり学んでいこ😊」――副主任になるまでの話
看護の専門性を高めたかった私が、管理職を選んだ理由
看護師になってから、ずっと専門性を高めたいと思って働いてきた。
勉強して、技術を磨いて、患者さんにとってより良い看護ができる自分になりたかった。
管理職になりたい、という気持ちはなかった。
でも気づいたら「副主任どうかな」という話が来ていた。
プレッシャーやった。
管理職になることで、自分が大切にしてきた専門性から遠ざかる気がした。
向いてないとも思った。
それでも引き受けたのは、師長への信頼があったから。
そして正直に言うと、拒否権がなかったから。
部長面談も無難に終わった。
「さすがやな、きょにたん!心強いわぁ😀頼んだでー!」
生粋の泉州のおばちゃんな部長の公認を受けて
副主任、誕生。
師長の言葉と、拒否権のない決断
辞令が出る前、師長にこう言われた。
「まずは、今いる病棟でゆっくり学んでいこ😊」
その笑顔に、少し安心した。
知ってるスタッフと、慣れた環境で、少しずつやっていけばいい。
しぶしぶやったけど、やってみようと思えた。
副主任になって、2週間後のことを知らないまま。
遠い世界の話やと思ってた――コロナ禍の始まり
武漢、豪華客船、「うちには関係ないやろ」
2020年の初め頃、休憩室でよくこんな会話をしてた。
「中国の武漢で、新しいウイルスが出てるらしいで」
「豪華客船の中で流行って、亡くなった人もおってー」
「フェリーに閉じ込められてる人、かわいそうやな」
「コビット21っていう名前らしいでー」
看護師同士、ニュースを見ながらこんな感想を言い合ってた。
私には関係ない、遠い世界の話やった。
「大変そうやなー」くらいの感想やった。
元々勤めてた病院は、関西国際空港にちょっとだけ近い場所にあった。
「うちにも来たらどうする?」「えー怖い」なんて話もしてた。
でもまだ、笑って話せてた。
だって、ニュースの中の遠い世界の話やったから。
副主任2週間後、病棟に激震が走った
副主任になって2週間。突然、上から話が降りてきた。
内容は極秘。外部には公表しない。
でも小児病棟をコロナ病棟に編成することになった、と。
スタッフに選択肢が提示された。
「ここに残って、コロナ患者の看護に当たるか」
「小児科の患者さんごと、循環器などの混合病棟に移動するか」
「たぶん1〜2週間の応援程度やから、すぐ戻ってこれると思うけどね」
師長さんの表情は辛そうやった。
スタッフを未知のウィルスと対峙させることの申し訳なさ、恐怖があったんやと思う。
この時点では、あくまでも「応援」やった。
だから移動の辞令の交付は、なかった。
仕方ない、応援やから。すぐ戻れるから。
ワイは子どもが好きで、小児病棟に配属してもらった看護師やった。
患者さんごと移動する方を選んだ。
※まだ右も左も分からない、入職2年目の看護師3名を引き連れて。
「すぐ戻れる」という言葉を信じて。
地獄の1年間、全部書く
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